2014年4月19日土曜日

路上シンポ報告

4月16日の昼休み、立命館の文系学部が集まる衣笠キャンパスの西側広場という場所で、布を地面に敷きながら、お茶とお菓子を囲みつつ、ご飯やら鍋やらを食べながら、だいたい一時間から二時間ほど、「民族差別とヘイトスピーチを考える路上シンポ」を行いました。

主宰者の一人として、この場を借りて簡単にではありますが、今回の路上シンポという企画の趣旨と当日の様子について報告させていただきます。

当日用意したビラに書いた路上シンポの趣旨は以下の通りです。

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今日、この路上シンポを企画した私たちは、立命館大学に所属する学生です。

わたしたちは、今年一月に起きた、ネット空間を介しての立命館大学での民族差別・ヘイトスピーチ事件について、ちゃんと向き合うため、話し合うための「場」をつくります。

わたしたちが教室ではなく大学空間の「路上」を場所として選んだのは、大学でなにがあったのかも知らない人たちにどのようなことがあったのかを知ってもらうために、今後このような「場」をいろんな人々が作っていくために、そして講演会のように肩肘張らずにもっと柔らかに話し合うためにです。

保持している知識を語るためではなく、また、何かの行動をとるために会議をするのでもなく、それぞれが民族差別・ヘイトスピーチについて感じてきた想いをシェアすることが、わたしたちの目的です。理路整然とした言葉ではなくて、その一歩手前の「感情」をもっと語り合いたいのです。

民族差別・ヘイトスピーチなんて自分には関係ないと思ってきたあなた、
関係のない人など、本当のところは誰一人としていないのです。
そして、あったことをなかったことにはできません。

ご飯でも食べながら、お茶でも飲みながら、話しませんか?

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民族差別・ヘイトスピーチに関する路上シンポを学内でやってみようということにわたしとある友人(Tとしましょうか)がなったのにはいろいろと経緯があり、最初から学内で路上シンポという形が決まっていたわけでないのですが、そうした経緯についてはここでは割愛します。

ただ、民族差別・ヘイトスピーチについて、自分が感じてきたことや想ってきたことを肩肘張らず柔らかに話し合い共有する場を作りたいというのは、わたしとTにはじめから共通していた考えでした。

有志の方々を中心とした立命館への公開質問状の提出であったり、教育関係者たちによる声明であったりと、今回の事件に対する大学側の対応への批判と応答が出され(恥ずべきことに、大学はそれらになんら応答を行っていないわけですが)、また今後今回の事件を踏まえたいくつかの講演会が予定されるなど、現実的な対応や今後の抵抗の在り方を考えていくような取り組みは徐々にできつつあります。

ただ一方で、わたし(やたぶんTもですが)の印象としては、そうした取り組みでは、そもそも今回の事件に対してどのようなことを想い感じたのかということは、なかなか話せられてこなかったし、話しにくいことでもあったのではないのかと感じてきました。なにより、「研究」や「運動」の言葉ではなく、その人自身の言葉で話し合う機会が必要なように感じていました。

また、今回の事件は、民族差別・ヘイトスピーチにかかわる問題であると同時に、大学空間における「政治的」とされるものに対する封じ込めの問題でもあり、このことは意識されこそすれ、十分には話し合えていないという印象も、わたし個人にはありました。

そして、それらを教室という閉じた空間で行うのではなく、いろんな人たちの目や耳に届いてもらうために「路上」を場所として選んだのです。


路上シンポに参加してもらったのは、事前にわたしとTが声をかけていた10~15名ぐらいの方々、また飛び入りで、留学生の方が一人輪の中に加わってもらえました。
最初にわたしが軽くあいさつ代わりに企画の趣旨を語り、それから参加してもらった人々にそれぞれ自己紹介をしてもらってから話し合いを始めました。

ただ、事前に向かうべき議論の方向性を設定していたわけではなく、どのような意見が交わされたのかを説明しきることは難しいので、わたしのなかに印象に残っていることを書き残しておくことにします。

民族差別・ヘイトスピーチという問題は日常にありふれていること、しかしそのことを気づいてくれない人たちの多さと、その多さにときに押し黙ってしまうこと。
やるべきことであることをやろうとしているだけなのに、どんどんとしんどくなっていくこと。そういったことはしょうがないものだと割り切ろうと思いつつ、次第に自分たちでは抱えきれなくなっていったり、もしくは、誰かに集中して集まってしまうことにだけはなってほしくないという想い。
マイノリティ運動にしろ、また学生運動にしろ、この社会や大学のおかしさのなかで押し潰されようとしているから声をあげようとして、でも誰も気にも留めはしない。
現実を見ることのしんどさ。現実に向き合えば向き合うほど無視できなくなることが更に見つかっていくということ。
何かをしようとするとき、していくとき、必要なのは「自分たち」だけでなくて「誰か」とやっていくことであり、また大切なのは、自分たちのやっていること以外のことと積極的につながっていくこと。そして、それは、理論や構造の共通性や類似性を理解することからではなく、感情レベルでの共感からでもよいのではないかということ。
でも実のところ、現実をみないようにしたりわからないようになるということは、それはそれでその人自身を抑圧しているのではないか、それ固有のツラさもあるのではという問い。

そのようなことが、それぞれの言葉で語られ、互いの言葉は静かに交わり合っていたように思います。


話し合いの輪にどうやっていろんな人に入ってもらえるようにするのか(入りたかったけど結局は入れなかったという人もいたようです)、話し合っている内容をどのように輪の外にいる人に伝えるのかについては準備が不十分で、課題は多かったと思います。
でも、概ね、参加してくれた人たちはこの企画を楽しんでくれたようでした。

今後も、このような取り組みは継続してやっていきたいとわたしたちは思っています。そうやって、少しずつ場をつくり、立命館という大学で起きた民族差別・ヘイトスピーチを決してなかったことにすることなく、向き合い考え続けていきたいです。

sunny